低地ドイツ語とは何か? / Wat is Plattdüütsch?
こんにちは。
ふれんすぶるがーの在外商館です。
私は現在大学院に在籍しているのですが、主に「低地ドイツ語」について研究しています。
一言で言ってしまえば、標準語になれなかった北ドイツ土着の言語ですが、これがまた非常に興味深い言語なんです。
より専門的な解説は後日に回し、今回はこの「低地ドイツ語」の基本的な事柄について簡潔に説明していきます。
1. 「普通」のドイツ語との違いは?
ほとんどの人が「低地ドイツ語」と聞いて思い浮かべるのは上のような疑問だと思います。
「普通のドイツ語」と書きましたが、より正確に言い換えれば「標準ドイツ語」となります。
現在のいわゆるドイツ語圏(ドイツ・オーストリア・スイス)で用いられている標準ドイツ語は„Hochdeutsch”と呼ばれています。
(※英語では“High German”と訳されます。hoch-highは対応が明白ですね。deutschは英語のdutchにあたりますが、なぜドイツ-オランダと意味がずれているのかはまた別のお話。)
そして、独和辞典で„Hochdeutsch”と検索すると「標準(ドイツ)語」と同時に「高地ドイツ語」という訳が掲載されているのを目にすることでしょう。
「高地・低地って何のことだよ」「専門用語を使うのはやめてくれ」と思う方がいらっしゃるかもしれません。
しかしこれは単純に土地の起伏として認識されます。
ドイツ語圏の南部地域は標高が高く、例えばドイツ第3の都会であるミュンヘン(München)では車を走らすとすぐにアルプス山脈がみえてくるほどです。
それに対し北部地域は標高が低く、山らしきものは全く見当たりません。
あったとしても、よくて高い丘です。(それがまた独特の雰囲気を醸し出していて美しいのですが。)
さて、勘の良い方はもうお気付きですね。
「低地ドイツ語」とは第一に、「高地ドイツ語」の対概念としての名称なのです。
東京で土地の高い地域のことばを「山の手言葉」、土地の低い地域のことばを「下町言葉」と呼ぶのを想像すれば分かりやすいかもしれません。
ただここで注意しなければならないのは、これらの名称における高低は単に「土地の高低」であり、「地位の高低」に基づいて名付けられたわけでは決してないということです。
つまり、「高地」ドイツ語が地位の「高い」標準語の座についているのは必然ではないのです。
2. 「低地」で話されているドイツ語?
上で見たように、南部の標高の高い地域で話されている「高地ドイツ語」に対し、「低地ドイツ語」は北部の標高の低い地域で話されています。
その差異は単に用いられている場所に関するのみならず、言語的にも大きなものです。
ここで、同じ「ゲルマン語」というグループに属する、英語-低地ドイツ語-高地ドイツ語を対比してみましょう。
- drink - drinken - trinken
- what - wat - was
- apple - Appel - Apfel
お気づきでしょうか、低地ドイツ語は高地ドイツ語よりも英語に似ているということに。
上にあげたd-t, t-s, pp-pfのような子音の対応は第二次子音推移„Zweite (Hochdeutsche) Lautverschiebung”という現象によって説明されます。
これはゲルマン語(英語・オランダ語・デンマーク語・スウェーデン語・アイスランド語など)の中で「高地ドイツ語」にのみ生じた子音の変化を指します。
上にあげた推移の他にも、k>ch (book-Book-Buch) や t>z (two-twee-zwei) などのように子音が変化しました。
800年頃に完了していたと思われる第二次子音推移は南部地域から北上していきましたが、現在のデュッセルドルフ(Düsseldorf)市区であるベンラート(Benrath)周辺で停止したため、高地ドイツ語と低地ドイツ語の境界線を「ベンラート線」„Benrather Linie”と呼ぶことがあります。(『ドイツ語史』郁文堂, 2009)
この第二次子音推移によって「高地ドイツ語」は他のゲルマン語とは異なる独自の道を行くことになったのです。
3. 北ヨーロッパの共通語「だった」低地ドイツ語
これまで見てきたように、低地ドイツ語は現在ドイツの標準語ではありません。
しかしながら、中世においては南部の高地ドイツ語に匹敵するほどの存在感を持ち、北ヨーロッパにおける共通語の座を占めていたのです。
中世における低地ドイツ語はそのまま「中世低地ドイツ語」„Mittelniederdeutsch”と呼ばれます。
一般的には1200年から1650年までの低地ドイツ語を指します。
この言語は中世北ヨーロッパの経済圏を支配した「ハンザ」„Hanse”の公用語として用いられたことから、ハンザ商人が活躍した北海・バルト海沿岸地域において広く浸透していきました。
中心となったのは「ハンザの女王」リューベック(Lübeck)であり、その方言は「リューベック規範」„Lübecker/Lübische Norm”と呼ばれる中世低地ドイツ語の規範となりました。(„Sachsensprache, Hansesprache, Plattdeutsch”, Willy Sanders, Göttingen, 1982)
現在とは異なり、書き手によって綴りなどがバラバラであった中世において高い均一性を保っていたことが特徴としてあげられます。
16世紀以降、低地ドイツ語は次第に南部の高地ドイツ語に取って代わられていくことになります。
イギリスやオランダの商人、北欧諸国の圧力などにより勢力縮小を余儀なくされたハンザとともに、中世低地ドイツ語の勢力も弱まっていきました。(『中世低地ドイツ語』大学書林, 1987)
かつて隆盛を誇った低地ドイツ語は没落への一途を辿り、今や田舎の一方言としてのみ存続しているだけでなく、現在では欧州評議会に認められた「少数言語」„Minderheitensprache”として保護対象になっている状況です。
しかし、フリッツ・ロイター(Fritz Reuter)やクラウス・グロート(Klaus Groth)などが残した低地ドイツ語文学に加え、ヨハネス・ザス(Johannes Saß)が記した低地ドイツ語文法および辞典の存在はかつての誇りを取り戻そうとしているような自信に溢れています。
標準ドイツ語による教材は以下のサイトで無料で見られます。
おわりに
さて、いかがだったでしょうか。
今回は私の研究対象である「低地ドイツ語」についてまとめました。
これをご覧になった方が少しでも低地ドイツ語に興味をもってくだされば幸いです。
読んでいただきありがとうございました。