ふれんすぶるがーの在外商館

大学院でドイツ語学を専攻しています。記事は低地ドイツ語を中心に、言語について書いていきます。また、ヨーロッパ旅行で撮り溜めた写真も掲載していきます。

【ガリヴァー旅行記】ガリヴァーは語学の天才だった。

こんにちは。
ふれんすぶるがーの在外商館です。

突然ですが皆さん,『ガリヴァー旅行記』という本はご存知でしょうか。
子どもの頃に読んだことがあったり,名前だけでも聞いたことのある方は多いことでしょう。
私は原作の第一篇「リリパット渡航記」にあたる小人の国の物語を小学生くらいの時に読んだことがあり,今回初めてスウィフト(Jonathan Swift, 1667-1745)の書いた原作(『ガリヴァー旅行記』岩波文庫, 平井正穂訳, 1980)を読んでみました。

この本がただの小説ではなく,当時の社会を反映した風刺小説であったというのも驚きでしたが,私としては主人公のガリヴァーに備わっている驚異的な語学能力の方に目がいってしまいました。

そこで,語学好きの皆さんにもこの驚きを共有したく,本記事では『ガリヴァー旅行記』に登場する“現実世界の言語”,そして彼が旅先で出会った“未知の言語”に関する描写をご紹介します。(以下,引用は全て上述の岩波文庫から行なっています。)

現実世界の言語

そこで私の方から多少とも聞きかじっていた言語という言語を使って彼らに話しかけてみた。といっても要するに、高地ドイツ語、低地ドイツ語、ラテン語、フランス語、スペイン語、イタリア語、それにいわゆる混成語で話したのだが、どれもこれも相手に通じなかった。(27-28頁) 

リリパット国の皇帝,聖職者,法律家を相手に7言語を披露。“オランダ語”ではなく,“低地ドイツ語”が含まれているのが興味深く,私個人としては嬉しい驚きであった。原文では“Low Dutch”とあるので,ただ一括りにされているだけかもしれないが。ここでいう「混成語」(=Lingua Franca)は地中海沿岸で用いられていたものを指しているようである。

 

やがてそのうちの一人が、明晰で丁寧で滑らかな言葉で何やら話しかけてきたが、音声だけからいうとイタリア語に似ていた。そこで、こちらからもイタリア語で答えてみた。せめて、相手の耳に爽やかにその音調が響いてくれることを願ったからに他ならなかった。(218頁) 

空飛ぶ島,ラピュータ上陸前の出来事。予想通り,この名称は宮崎駿のアニメーション映画「天空の城ラピュタ」の由来となっているそう。イタリア語に対するイメージは昔から変わっていないようだ。

 

われわれは、アレキサンダー大帝をこの部屋に招き入れた。私は彼のギリシア語が分りにくくてほとほと閉口したが、考えてみれば、私自身のギリシア語の素養が誠に貧弱なものであったことも関係していたようである。(270頁)

魔法使いの島,グラブダブドリップでの出来事。死者を呼び出す術を使う族長のおかげで,かの有名な大帝とご対面。毒殺ではなく,酒を飲みすぎて熱病にかかったのが本当の死因らしい。ガリヴァーはこのあと丸一日をこの術に当て,古代から近世にかけての偉人という偉人を族長に呼び出させまくっている。この後,当たり前のようにカエサルとブルートゥスと話しているが,リリパット国でも披露しているように,ギリシア語よりはラテン語の方が喋れたのだろうか。

 

私は以前オランダに長いこと住んでおり、ライデンで研究を続けたこともあるので、オランダ語は自由に喋ることができた。(302頁)

日本の長崎(ナンガサク)からアムステルダムへの航海の途中,オランダ人船員と。並外れた交渉力で踏み絵は免除された。なお,実在する国が作中で旅先として挙げられているのは,日本のみである。ヨーロッパ諸国の中で唯一オランダだけが日本との関係を持っていたという事で,ガリヴァーが国に帰る手段として登場させられている感じは否めない。

 

聞いていて、彼らの言葉が感情を十分に表現できること、一語一語が中国語以上にたやすくアルファベットに分解できること、などを私ははっきり看取した。(315-316頁)

フウイヌム語に対する第一印象。フウイヌム国は理性を持つ馬(=「彼ら」)が支配するユートピアガリヴァーは中国語を喋ることができるとは断言していないが,その音的特徴を引き合いに出しているということは多少の知識は持っているのだろうか。

 

彼らの喋り方は、鼻と喉を使って発音するといったやり方である。彼らの言葉は、ヨーロッパの言語の中で、私の知っている限りでは、高地ドイツ語に一番近いが、実際にはもっと優雅で表現力に富んでいる。(327頁)

「彼ら」とは,フウイヌム(=馬)のこと。ここでもまた,ドイツ語は馬の言葉であると馬鹿にされている。むしろ,馬の言葉の方が優雅であるともガリヴァーは言っている。この後には,チャールズ2世の“馬に話しかける時にはドイツ語を話す”という言葉に対する賛同を示す文言が続くが,私のようなドイツ語好きはこの程度ではへこたれない。なお,神聖ローマ皇帝カール5世もドイツ語は馬への言葉という言葉を残しており,時代的にはこちらの方が古い。

 

一人の水夫が、さ、起つんだ、一体お前は何者なんだ、とポルトガル語で言った。ポルトガル語なら私にも達者に喋れるので、早速起ち上がって、私はフウイヌムたちの所から追放された哀れなヤフーだ、すぐ立ち去るからこの場はそっとしておいてもらいたい、と頼んだ。(407-408頁)

ここまでくると,もはやどの言語を喋れても驚きはしない。ヤフーは理性のないこと以外はヒトと変わらない,フウイヌム国で最も憎まれている生き物。なお,検索エンジンで有名なYahoo!は“Yet Another Hierarchical Officious Oracle”の略称とされているが,創業者2人によれば『ガリヴァー旅行記』のヤフーが由来になっているらしい。 

 

未知の言語

およそ三週間もたつと、私の語学の勉強も大変進歩し、この国の言葉が喋れるようになった。(31頁)

リリパット国にて,6人の学者から言語を学ぶ。大学書林もびっくりの“リリパット語三週間”。

 

彼女はまた私に言葉を教えてくれた先生でもあった。私が手で何かを指さすと、自分たちの言葉ですぐ言ってくれるというわけで、数日のうちには、私は、欲しいものは何でも自由に口に出して言えるようになった。(123-124頁)

巨人の治めるブロブディンナグ国にて。「彼女」とは,ガリヴァーの世話をしてくれる心優しい少女のこと。それにしても数日で,それも口頭だけで単語を覚えてしまうとは,恐ろしや。

 

こうやって、二、三日もたつと、こんな時にはいつも非常に身をたすけてくれる生来の記憶力のおかげで、彼らの言葉が多少どんなものか見当がついた。(223頁)

イタリア語に響きが似ているというラピュータ語を,国語教師からの授業も通して習得。ガリヴァーは紙の片方にラピュータ語を,もう片方には英語の対応語を書き,それらをアルファベット順に並べて覚えるという学習法をとっている。記憶力はどの学習においても助けになるだろうが,単語を対照させて覚えるという方法も古典的なだけあって,やはり有効なのか。暗記という作業に対する忍耐力も彼には備わっているのだろう。

 

十週間くらいたつと、主人の質問の意味は大抵分るようになったし、三ヵ月もたつとどうにか答えられるようにもなった。(328頁)
こういった事が何かと幸いして、私の語学は見る見るうちに上達して、ここへ来て五ヵ月も経った頃には、聞く方は殆ど何でも分り、喋る方もかなり旨く喋れるようになった。(329頁)

作中で最も詳細に言語習得の描写がされているのが,フウイヌム語に関してである。ガリヴァーの学習法はこうである。まず,周りにあるものを指して名前を尋ねる。のちに,ラピュータ語と同様に,それをローマ字に直して英訳をつけ,日記帳に書き留める。そして,アクセントはネイティブスピーカーに繰り返し発音してもらうことで身につける。第一印象が中国語のような言語で,かつ発音を何回も聞いて習得するということは,フウイヌム語は声調言語なのだろうか。

言語学の「古典」を訳してみた。【シュライヒャー『印欧語比較文法要説』序文】

こんにちは。
ふれんすぶるがーの在外商館です。

インド・ヨーロッパ語を対象とした比較言語学(vergleichende Sprachwissenschaft)は有名ですが,ソシュールの『一般言語学講義』のような“古典”はあまり知られていないのではないでしょうか。

今回は比較言語学の原点とも言える,アウグスト・シュライヒャー(August Schleicher, 1821-1868)による『印欧語比較文法要説』(Compendium der vergleichenden Grammatik der indogermanischen Sprachen, Weimar, 1866, 第2版)の序文を訳してみました。

今でこそGoogleの画像検索などで簡単に見ることのできる言語の「系統樹」(Stammbaum)ですが,シュライヒャーは『要説』の序文でこれを描いています。印欧語をゲルマン・スラヴ語派とアーリア・ギリシア・イタロ・ケルト語派へと南北で二分するなど,現代の見解とは異なる部分もありますが,言語の親縁関係を表した系統樹の“パイオニア”でもある彼の功績は大きなものでしょう。(系統樹は記事の最後に掲載しています。)

※訳文は大学の授業で発表し,そこで受けた提案も反映しているため,壊滅的なミスはないと信じていますが,あくまで素人による訳ですので,その点ご理解ください。また,「ザ・直訳」なところもあります。

 

 

序文[Einleitung

 I. 文法は言語学sprachwißenschaft oder glottik**]の一部を形成している。言語学そのものは人類の進化史の一部である。言語学の方法は,本質的には総じて自然科学のものである。つまり,対象の精確な観察とそれに基づく推論にある。言語学の主要な課題の1つは,言語の種族あるいは語族,つまり,同一の祖語から派生した言語の調査および記述である。そして,この言語群の自然体系に従った分類である。かなり少数の語族しかこれまで比較的精確に研究されていないため,言語学のこの主要な課題を解決するということは,将来に期待がかけられねばならない。

**ひどく作り出された“linguistik”よりも明らかに優先されるべきであるこの良い語は,私によって作られた訳ではない。その語がとうに用いられていた,ここ〔イェーナか〕の大学図書館に私はお陰を被っている。)

 我々が文法と名付けているのは,以下に挙げるものの学問的な理解と叙述である。つまり,音韻,語形,語とその部分の機能,そして文構造である。したがって,文法は音韻論,語形論あるいは形態論,機能論あるいは意味・関係論,そして統語論から成っている。文法は言語一般,あるいは特定の言語や言語グループを対象とすることができる。つまり,一般言語学と個別言語学である。文法はほとんどの場合,言語を成長するもの[gewordenes]として表現しなければならないだろう。つまり,言語の生命[das leben der sprache]をその法則において研究し,叙述しなければならない。ただこれだけをすれば,つまり,言語の生命を説明することを主題とすれば,文法は歴史文法あるいは言語史と呼ばれる。より正確には,言語の生命*(音韻,語形,機能,文の生命)に関する学であるが,この学はまたもや,まさに一般的でも個別的でもあり得るのである。

*あらゆる自然有機体のように,言語は生きている。言語は人間のように振る舞うことはせず,我々がこの語を狭義で本来の意味において捉えるならば,歴史も有してはいない。)

 したがって,印欧語文法は個別文法である。さらに,この文法はこれらの言語を成長するものとして観察し,より古く,また極めて古い状態からそれらを明らかにしていくため,より正確には印欧語個別歴史文法と呼ばれうる。

 注1:記述するだけでなく,言語形態をできる限り多く説明する文法は,ふつう個別言語の観察に限定され得ないため,比較文法と呼ばれることが通例である。

 注2:以下の内容は,言語が科学的観察に提供している2つの観点のみを含んでいる。つまり,音韻および語形である。今のところ,我々は印欧語の機能と文構造を科学的に扱うことがまだできていない。より外面的で,より容易に捉えることのできる言語の側面,つまり音韻と語形を扱えるようにはいかないのである。

 

 II. あらゆる言語にとっての共通の祖語を想定することは不可能である。むしろ,数多くの祖語が存在していたのである。このことは,今もなお生きている世界の言語を比較的に観察することから,確実に判明する。しかし,言語は絶えず死滅するが,実際に新たな言語が生まれることはないため,起源的には現在に比べもっと多くの言語が存在していたに違いない。祖語の数は,それゆえ,なお生きている言語にしたがって仮定されうるよりも,間違いなくずっと多かったのである。

 言語はさしあたり,最も容易には,その形態的な性質にしたがって分類されうる。第一の言語は,不可分で不変的な意味音[bedeutungslauten]からのみ成っている言語であり,孤立語isolierende sprachen]という。(例:中国語,安南語〔=ベトナム語〕,シャム語〔=タイ語〕,ビルマ語)我々は,そのような不変的な意味音をRradix=語根)で表す。印欧語がこの段階にあるのは,例えばai-mi(独ich gehe, 古希εἶμι〔実際にはei-miか〕)がこうではなく,iあるいはi ma(式:RあるいはR+r)と書かれている場合である。第二の言語は,この不変的な意味音に,前・中・後,あるいは複数の場所に同時に,ssuffix〔=接尾辞〕),ppraefix〔=接頭辞〕),iinfix〔=接中辞〕)で表される関係音[beziehungslaute]をはめ込むことのできる言語であり,膠着語zusammen fügende sprachen]という。(例:フィンランド語,タタール語〔=トゥルク語〕,デカン語,バスク語,新世界の原住民語,南アフリカ諸語あるいはバントゥー諸語などの,総じて最も多い言語である。)この発達段階では,ai-miという語はi-maあるいはi-miRs)と書かれるだろう。第三の言語は,語根そのものが,関係を表現するという目的のために規則的に変化することができ,同時に膠着という手段を保持している言語である。つまり,屈折語flectierende sprachen]である。そのような,関係を表現するという目的のために規則的に変化可能な語根を,我々はRxR1, R2など)で表す。これまでに,この種類の2つの語族が我々には知られているが,それはセム語と印欧語である。後者は全ての語に対して1つの語形しか有していない。すなわち,Rxsxsx1つ,もしくは複数の接尾辞を意味する。)であって,規則的に変化可能な語根は,その末尾において(接尾辞),関係の表現を伴う。例えば,ai-miは語根iに由来している。

 印欧語はつまり,それと隣り合っているフィン語族の言語と共に,またタタール語(トルコ語),モンゴル語ツングース語,サモエード語〔=ウラル語〕と,同様にドラヴィダ(デカン)語族と共に(これら全てはRsの形態を有している)接尾辞語[suffixsprachen]に属している。

 注1:印欧語とは同族関係にないセム語は複数の語形態を有しており,特に印欧語にとって完全に異質な形態であるRxpRxを有している。印欧語は単一の形態のみを有している。それに加えて,他の根本的な対立はさておき,セム語の母音体系は印欧語のものとは全く異なっている。セム語族の祖語を推定する試みは,Justus Olhausenヘブライ語の教科書において為した。

 注2:印欧語の加音[augumentギリシア語やサンスクリット語の直説法過去形において語幹に前置されるe-またはa-言語学小辞典]は関係の補助物[beziehungszusatz]や接頭辞ではなく,溶け始めてan geschmolzenesいて,起源的には自立した語であるが,周知の通り欠けることもできる。

 

 III. 言語の生命(通常は言語史と呼ばれる)は,2つの主要部分に分かれている。

 1. 言語の発達[entwickelung],前歴史時代。人間と共に言語,つまり思考の音による表現が生まれた。最も単純な言語もまた,緩やかな成長の結果である。より高尚なあらゆる言語は,より単純な言語から生まれた。膠着語孤立語から,屈折語膠着語から生まれたのである。

 2. 機能と文構造における重要な変化が同時に生じた,音韻と語形における言語の堕落[verfall],歴史時代。第一の時代から第二の時代への推移は,緩やかなものである。言語がその生命の流れの中で,それに従って変化する法則を探し出すことは,言語学の主要な課題の1つである。というのも,法則の知識なしには,存在している言語,特に今なお生きている言語を理解することができないからである。

 同一の言語地域が様々な段階において様々に発展したことにより,その初期が同じく歴史の伝承にあたる第二の時代の過程において,同一の言語は複数の言語(方言)*へと分裂した。この分化プロセスは何度か繰り返されうる。

*mundart, dialect, spracheの違いは,一般に確立され得ない。)

 この全てのことが,言語の生命においては長い時間の過程で生じたのである。一般に,言語の生命において起こっている全ての変化は徐々に発生するのであるが。

 祖語から最初に生まれた言語を,我々は基語[grundsprachen]と呼ぶ。基語のほぼ全ては言語[sprachen]へと分化した。これらの言語の全てはさらに方言[mundarten]へと,そしてこれらは下位方言[untermundarten]へと分裂されうる。

 ある祖語に由来する全ての言語は共に,sprachfamilieへと再び区分されるsprachsippe,あるいはsprachästeへと再び区分されるsprachstammを形成している。

 

 IV. 印欧語と呼ばれているのは,ある共通の祖語から生じたということが明らかに分かるほど一致しており,他のあらゆる言語とは異なった性質を持っている,アジア・ヨーロッパ大陸のある一連の言語である。

 しかし,この印欧語族内では,地理的に隣接した特定の言語がより近い同族関係にあることが明らかになっている。つまり,印欧語族3つのgruppenあるいはabteilungen[語群]に分かれている。

 1. アジア語あるいはアーリア語群[asiatische oder arische abteilung]はインド語派[sprachfamillie],そしてイラン,より正確にはエラン[eranisch]語派から成っており,それらは非常に近い同族関係にある。最古の代表者であり,インド語派の基語であり,総じて最も有名な印欧語は古インド語,つまりヴェーダの最古の部分の言語である。のちに,簡略化された形態において,民衆方言に対する正しい文章語としてのある種の規則により定められ,サンスクリットと名付けられた。イラン語は基語においては知られていない。保存されている最古のイラン語は古バクトリア語〔=アヴェスター語〕あるいはzend**,そして古ペルシア語,つまりアケメネス楔形文字の言語(西イラン語)である。この語派にはさらに,我々が比較的最近になってようやく知ったアルメニア語が属しているが,この言語は初期において既にイラン基語から離れていたに違いない。

**Jaçnagāthā〔ガーサー,ザラスシュトラ(=ゾロアスター)作〕という叙事詩は,いくつかの点において,アヴェスターの他の部分の〔言語である〕古バクトリア語と方言的に異なっている。)

 2. 南西ヨーロッパ語群[südwestliche europäische abteilung]は以下の言語から成っている。つまり,ギリシア語(比較的のちの言語形態においてのみ保存されているアルバニア語がおそらく最も近くに置かれうる),イタリック語(この語派のうちで最も古く有名な形態はラテン語であり,我々にとって特に重要なのは,ギリシア語の影響下で形成された正しい文章語が導入される前の古ラテン語,つまりウンブリア語とオスク語である。),ケルト語(最も良く保存されているが,既にかなり分解されているケルト語派の言語は古アイルランド語であり,西暦7世紀から入手可能である。)である。イタリック語とケルト語はギリシア語よりも互いに似ている。

 3. 北ヨーロッパ語群[nördliche europäische abteilung]は,非常に近い同族関係にあるリトアニア語(我々はこの語群で最も重要な言語の1つとして挙げている)を伴ったスラヴ語派と,この2つからさらに離れているゲルマン語派[deutschen]から成っている。この区分のうちで最古の言語形態は古ブルガリア語(ようやく11世紀に由来する写本における古代教会スラヴ語**),3世紀前からようやく入手可能になったが,未だになお非常に古い音韻段階[lautstufe]でとどまっているリトアニア***(特に,高地リトアニア語,南部リトアニア語,プロイセンリトアニア語),そしてゴート語(4世紀に由来する)である。しかし,ゴート語と並んで,ドイツ語とノルド語の古風な代表者である古高ドイツ語と古ノルド語が,ゴート語よりも古い形態を示している場合には引き合いに出されうる。

**Miklosichはこの言語を「古スロヴェニア語[altslowenisch]」と名付けている。「教会スラヴ語[Kirchenslawisch]」と名付けられているのは,より新しく,他のスラヴ語,特にロシア語の影響によって変化したこの言語の形態である。)

***リトアニア語と非常に近い関係にあるプロイセン語(古プロイセン語)は少ない分量の,またあらゆる点で乱雑な記録においてのみ保存されている。ラトヴィア語はより新しい言語形態を示している。)

 音韻と言語構造において最も古風なものは,アジア語群において,ここでもまた古インド語において保存されている。古風(つまり,それほど激しく発達していない固有形態における,祖語との類似性の保持)に関して,次に続くのは,ギリシア語が最も忠実に古いものを保持していた南ヨーロッパ語群である。最後に来るのは,全般的に見て,最も個性的に発達した言語として,また極めてわずかしか祖語に忠実でないままの言語として,自らの素性を明かしている北ヨーロッパ語群である。

 このことを少し前に述べられた印欧語同士の同族関係と結びつけ,そこから原始時代における印欧語の言語体[sprachkörpers]の分岐プロセスを推論するならば,我々は以下の結論を得るだろう。

 印欧祖語はまず初めに,地域という様々な部分における不均等な発達によって,2つの部分へと分岐した。すなわち,印欧祖語から,スラヴ・ゲルマン語[slawodeutsch](のちにゲルマン語とスラヴ・リトアニア語[slawolitauisch]へと分かれた言語)が生じた。次いで,残された祖語の樹幹[stock],つまりアーリア・ギリシア・イタロ・ケルト語[ariograecoitalokeotische]は,ギリシア・イタロ・ケルト語[graeitalokeltisch]とアーリア語に分岐した。それらのうちの前者はギリシア語(アルバニア語)とイタロ・ケルト語[italokeltisch]へと分かれたが,後者つまりアーリア語は長い間なお1つのままであった。のちに,スラヴ・リトアニア語,アーリア語(インド・イラン語[indoeranisch]),そしてイタロ・ケルト語は再度分岐した。複数の,あるいは全ての分岐に際し,いま証明可能な言語よりも多くの言語が生じたということはあり得る。というのも,時間の経過の中で,かなりの数の印欧語がおそらく再び死に絶えたからである。

 印欧語族ein indogermanisches volk]が東部に住めば住むほど,その言語はより多くの古さを保存しており,西部に住めば住むほど,より少ない古さとより多くの新造物を含んでいる。他の徴候から推論されるように,ここから推論されるのは次のことである。つまり,スラヴ・ゲルマン人が最初に西への移動を始めた。次いで,ギリシア・イタロ・ケルト人が続いた。あとに残るアーリア人のもとから,インド人が南東へと移動した。イラン人は南西の方向へと広がっていった。したがって,印欧語の原民族の故郷は中央北アジアにおいて探されなければならない。

 一番最後に発祥の地を離れたインド人についてのみ,我々は完全な確信をもって以下のことを知っている。つまり,インド人はのちの居住地から種族の異なる,より古い民族を押しのけ,その民族の言語から,かなり多くがインド人の言語へと受け継がれたのである。複数の他の印欧語民族から,似たようなことが,部分的にかなり考えられる。語族を構成している語派の基語が生じるまでの,印欧語の最古の分岐は,以下の図によって具体化されうる。線の長さは期間を,線同士の距離は親近度を大まかに示している。

 注:この著作では,推定されている印欧祖語を,実際に存在している最古の姉妹語と並んで据えるという試みが行われている。この試み[einrichtung]が提供している利点,つまり,最新の研究結果をはっきりとした具体性において学習者にすぐに理解させ,印欧語の個別言語の本質への理解を容易にすることで提供している利点のほかに,どうでもよいものとは私には思われないのだが,第二の目的がこの試みによって確実に達成される。すなわち,未だになお完全に過ぎ去ったわけではない次のような仮説が,全くの無根拠であると明白に証明されるのである。つまり,インド語派ではない印欧語も古インド語(サンスクリット)に由来するというものである。特に,古バクトリア語に関して,この考えは現在までに支持者を見つけている。悪意のある人によって用いられることも稀ではない,印欧語分野における研究者を指す「サンスクリット学者[sanskritisten]」という名称を用いて,我々がそれに相応しくない価値をサンスクリットに認めていると言いたい人もいる。これは,我々が他言語の由来をサンスクリットに求めるか,他言語自体を徹底的に研究せずにサンスクリットを用いてそれらを解釈することによるものであるが,その名称は同様に,要説において適切に表現されている試みによって,全く正しくないものとして明白に証明される。個々の場合において,我々による印欧祖語の推定形が多かれ少なかれ不確かであるという欠点は,次のような利点とは決して釣り合わない。つまり,我々の見解に基づき,要説において行われている素材の配列によって達成されている利点である。

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https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/0/01/Schleicher_Tree.jpg/1920px-Schleicher_Tree.jpg

 

低地ドイツ語とは何か? / Wat is Plattdüütsch?

 

こんにちは。

ふれんすぶるがーの在外商館です。

 

私は現在大学院に在籍しているのですが、主に「低地ドイツ語」について研究しています。

一言で言ってしまえば、標準語になれなかった北ドイツ土着の言語ですが、これがまた非常に興味深い言語なんです。

より専門的な解説は後日に回し、今回はこの「低地ドイツ語」の基本的な事柄について簡潔に説明していきます。

 

1. 「普通」のドイツ語との違いは?

ほとんどの人が「低地ドイツ語」と聞いて思い浮かべるのは上のような疑問だと思います。

「普通のドイツ語」と書きましたが、より正確に言い換えれば「標準ドイツ語」となります。

現在のいわゆるドイツ語圏(ドイツ・オーストリア・スイス)で用いられている標準ドイツ語は„Hochdeutsch”と呼ばれています。

(※英語では“High German”と訳されます。hoch-highは対応が明白ですね。deutschは英語のdutchにあたりますが、なぜドイツ-オランダと意味がずれているのかはまた別のお話。)

そして、独和辞典で„Hochdeutsch”と検索すると「標準(ドイツ)語」と同時に「高地ドイツ語」という訳が掲載されているのを目にすることでしょう。

 

 

「高地・低地って何のことだよ」「専門用語を使うのはやめてくれ」と思う方がいらっしゃるかもしれません。

しかしこれは単純に土地の起伏として認識されます。

ドイツ語圏の南部地域は標高が高く、例えばドイツ第3の都会であるミュンヘン(München)では車を走らすとすぐにアルプス山脈がみえてくるほどです。

それに対し北部地域は標高が低く、山らしきものは全く見当たりません。

あったとしても、よくて高い丘です。(それがまた独特の雰囲気を醸し出していて美しいのですが。)

 

さて、勘の良い方はもうお気付きですね。

「低地ドイツ語」とは第一に、「高地ドイツ語」の対概念としての名称なのです。

東京で土地の高い地域のことばを「山の手言葉」、土地の低い地域のことばを「下町言葉」と呼ぶのを想像すれば分かりやすいかもしれません。

ただここで注意しなければならないのは、これらの名称における高低は単に「土地の高低」であり、「地位の高低」に基づいて名付けられたわけでは決してないということです。

つまり、「高地」ドイツ語が地位の「高い」標準語の座についているのは必然ではないのです。

 

2. 「低地」で話されているドイツ語?

上で見たように、南部の標高の高い地域で話されている「高地ドイツ語」に対し、「低地ドイツ語」は北部の標高の低い地域で話されています。

その差異は単に用いられている場所に関するのみならず、言語的にも大きなものです。

ここで、同じ「ゲルマン語」というグループに属する、英語-低地ドイツ語-高地ドイツ語を対比してみましょう。

 

  • drink - drinken - trinken
  • what - wat - was
  • apple - Appel - Apfel

 

お気づきでしょうか、低地ドイツ語は高地ドイツ語よりも英語に似ているということに。

 

上にあげたd-t, t-s, pp-pfのような子音の対応は第二次子音推移„Zweite (Hochdeutsche) Lautverschiebung”という現象によって説明されます。

これはゲルマン語(英語・オランダ語デンマーク語・スウェーデン語・アイスランド語など)の中で「高地ドイツ語」にのみ生じた子音の変化を指します。

上にあげた推移の他にも、k>ch (book-Book-Buch) や t>z (two-twee-zwei) などのように子音が変化しました。

800年頃に完了していたと思われる第二次子音推移は南部地域から北上していきましたが、現在のデュッセルドルフ(Düsseldorf)市区であるベンラート(Benrath)周辺で停止したため、高地ドイツ語と低地ドイツ語の境界線を「ベンラート線」„Benrather Linie”と呼ぶことがあります。(『ドイツ語史』郁文堂, 2009)

 

この第二次子音推移によって「高地ドイツ語」は他のゲルマン語とは異なる独自の道を行くことになったのです。

 

3. 北ヨーロッパの共通語「だった」低地ドイツ語

これまで見てきたように、低地ドイツ語は現在ドイツの標準語ではありません。

しかしながら、中世においては南部の高地ドイツ語に匹敵するほどの存在感を持ち、北ヨーロッパにおける共通語の座を占めていたのです。

 

中世における低地ドイツ語はそのまま「中世低地ドイツ語」„Mittelniederdeutsch”と呼ばれます。

一般的には1200年から1650年までの低地ドイツ語を指します。

この言語は中世北ヨーロッパの経済圏を支配した「ハンザ」„Hanse”公用語として用いられたことから、ハンザ商人が活躍した北海・バルト海沿岸地域において広く浸透していきました。

 

中心となったのは「ハンザの女王」リューベック(Lübeckであり、その方言はリューベック規範」„Lübecker/Lübische Norm”と呼ばれる中世低地ドイツ語の規範となりました。(„Sachsensprache, Hansesprache, Plattdeutsch”, Willy Sanders, Göttingen, 1982)

現在とは異なり、書き手によって綴りなどがバラバラであった中世において高い均一性を保っていたことが特徴としてあげられます。

 

16世紀以降、低地ドイツ語は次第に南部の高地ドイツ語に取って代わられていくことになります。

イギリスやオランダの商人、北欧諸国の圧力などにより勢力縮小を余儀なくされたハンザとともに、中世低地ドイツ語の勢力も弱まっていきました。(『中世低地ドイツ語』大学書林, 1987)

 

かつて隆盛を誇った低地ドイツ語は没落への一途を辿り、今や田舎の一方言としてのみ存続しているだけでなく、現在では欧州評議会に認められた「少数言語」„Minderheitensprache”として保護対象になっている状況です。

しかし、フリッツ・ロイター(Fritz Reuter)やクラウス・グロート(Klaus Groth)などが残した低地ドイツ語文学に加え、ヨハネス・ザス(Johannes Saß)が記した低地ドイツ語文法および辞典の存在はかつての誇りを取り戻そうとしているような自信に溢れています。

標準ドイツ語による教材は以下のサイトで無料で見られます。

www.sass-platt.de

 

おわりに

さて、いかがだったでしょうか。

今回は私の研究対象である「低地ドイツ語」についてまとめました。

これをご覧になった方が少しでも低地ドイツ語に興味をもってくだされば幸いです。

 

読んでいただきありがとうございました。

自己紹介

 

はじめまして。

こちら、ふれんすぶるがーの在外商館です。

 

在外商館? そう、在外商館です。

 

唐突ですが、中世北ヨーロッパの経済圏を支配していた利益共同体ハンザはKontor(在外商館)と呼ばれる支店を各地に設置していました。

主人に命じられ、故郷の都市からわざわざ出向いてきた商人たちはそこで落合い、情報収集や主人に宛てた書簡の作成に励んだわけです。

 

このブログでは普段Twitterで呟いているふれんすぶるがーの「在外商館」として、皆さんに情報を提供していきたいと考えています。

 

主なテーマは大学院で研究している低地ドイツ語(のちに解説記事を投稿します)になりますが、言語全般やハンザに関する記事も書いていく予定です。

また、ヨーロッパ旅行で撮り溜めた写真も掲載していきます。

 

名前の由来

 「ふれんすぶるがー」という名前はドイツ最北端に位置するフレンスブルク (Flensburg) に由来しています。

一人旅で何となくハンブルクから日帰りで訪れたのですが、不思議な魅力に惹かれ、名前を頂戴しました。

 

フレンスブルクは19世紀半ばまでデンマーク領でしたが、シュレスヴィヒ=ホルシュタイン戦争と普墺戦争の結果プロイセン領となった都市です。

第一次世界大戦後、民族自決のスローガンのもと独丁国境画定のため行われた住民投票では北シュレスヴィヒがデンマークに返還されることが決まりましたが、フレンスブルクを含む南シュレスヴィヒはドイツ領に留まることになりました。

『ドイツ北方紀行』(松永美穂, NTT出版, 1997年)によれば、ヴァイマール共和国第二代大統領のヒンデンブルクはこれに感謝の意を表し、フレンスブルクに新たな駅を贈呈しました。

旧駅は現在「ドイツ・ハウス」„Deutsches Haus”の名称で文化会館として利用されているようです。

その後国境が変動することはありませんでしたが、現在でもデンマーク語を母語とする人々は社会集団を形成しています。

 

最後に、フレンスブルク近郊のグリュックスブルク城 (Schloss Glücksburg) をご紹介します。

 この城は『地球の歩き方』にも掲載されていますが、南ドイツのノウシュヴァンシュタイン城 (Schloss Neuschwanstein) ほどの知名度はないように思われます。

ですが、その権威は相当なもので現在のデンマーク王家とノルウェー王家は城主であるグリュックスブルク家の出身です。

Wikipediaによれば、一族からはギリシャ国王も出ているようです。

 

では、今回はここまでといたします。

読んでいただきありがとうございました。

 

改めて、これから宜しくお願いいたします。

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グリュックスブルク城(撮影:2017年8月20日